覚悟

覚ると悟るで覚悟。 すごい言葉だ。 仏教では、仏さまをブッダと言います。 ブッダは「(世の中の真理に)目覚めたる」人という意味。 確かに、寝ぼけ眼で歩いていてタンスの角に足の先をぶつけてイタタッ、となることを思うと、人生においても「目覚めている」と痛みも少なそう。 寝ているときは、周りのことは分からない。 人生に眠っているときも、分からないのだろうな。 「起きてますかー⁈」って揺さぶられる代わりに「この世の中は移り変わり、何ひとつとしてそのままのかたちで存在していたものも存在しているものも存在していくものもないから、物事の通りを見極めてこころ静かに過ごすことができる」そんなことを「覚り」を開かれたお釈迦さま、ゴータマ・ブッダは私たちにこころ穏やかに話しかけてくださったということかと思います。 そこから、仏教がはじまります。 物事は、原因と作用(環境)、つまり縁によって成り立っている。 私も周囲に支えられているし、私の身体自体も私自身を支えてくれている。そして、私の身体も私もそのように周囲を支えている一分なのだ、微力ながら。 「悟り」という漢字…こころで五回口にする、と書く。 なるほど5回も心の中で反芻すると、あっそうか!となることも少なくないように思います。 朝、目覚まし時計が鳴ってもスヌーズ機能でなかなか目覚められないけど、さすがに5回鳴ると起きるかな、笑。 仏の顔も三度まで、という諺もあるけど、3度ならず5回、10回とブッダの教えに耳を傾け、心で口遊み、その妙味をささやかでも感じられそうなとき、きっとブッダの教えに説かれる縁起の教え、仏法に一(いち)分でも沿うことが出来ている瞬間なのかも知れません。 「今ここ」は、今この瞬間しかありません。 しかし、その過去の瞬間の積み重ねが今で、また今のこの瞬間の積み重ねが未来をつくっていくことを思うとき、 ブッダの説く仏法の一分たる自分の心にその「自覚」を持ち、一瞬一瞬が今ここで私のこころをつくり、その法に基づいた今ここの積み重ねが人生であることを思い、自らが周囲に支えられ、また自らが周囲を支えていることに有難さを感じ、そのことを気づくことができる幸せを、今ここで感じで、人びとと幸せな世の中をきずいていけたら素晴らしいのでなかいかなと、思います。 覚悟をもって。

フェイスブック‘ページ’を開設

Facebookの投稿をしてきて仏教的な内容と日頃の雑感や身の回りの写真などをアップしてきました。 この度、このうち日頃の雑感や写真などを除く‘仏教的’な事柄をフェイスブックの‘ページ’を開設してつづっていくことにしました。 いずれも‘岩田敏靖’。 Facebookでもお友達になってくださっている名古屋のヘアアーティストの岩田敏靖さんのページと時々迷われてしまうこともあるかもしれませんが、プロフィールをご覧いただくと判別がすぐにできるかと思います。 日本を代表する実力をお持ちでありながら、大変お人柄が柔らかで、同姓同名を良いことに陰ながらご活躍をフェイスブックを通じて応援させていただいております。 話が逸れてしまいましたが、従来の岩田敏靖の投稿でも仏教的なことを記載することもあるかと思いますが、そちらはもっぱら日々の雑感をつらつらと記したいと思います。 仏教的なこと、といっても「効能ではなく個人の感想です」と字幕によくあるレベルですから、あきれて口がふさがらない方もどうぞご容赦願います。 前置きが長くなりましたが、では早速仏教‘的’な内容に触れてみて、「蓮(はす)」について。 仏教、特に「蓮」を用いた名前の経典がある通り、蓮はブッダの教えの中で幾度もモチーフとなっている。 もちろん、その理由を誤りなく説明しようとすると、大学ができてしまうほど甚遠であろうとおもいますから、ここでは私が思う「はす考」をひとつ。 ‘蓮はよく泥池にあってその泥に染まらずに美しく華を咲かせる’ことから、世の中にあってそのさまざまな苦難にめげずに人生を美しくおくりましょう、と言った励ましのようにも受け取れます。 どろどろとした人生で出くわす場面、濁って先の見通しも立たないと思われるような状況、枯渇を潤すにはあまりに困難な対象、いろいろと泥から想像される場面は多かれ少なかれ経験することがあるのではないかなと思います。 この泥のような状況にあって、その泥に染まらずに困難苦難を乗り越えた際に感じる清涼感、清々しさ、あたかも泥沼の泥に染まらずに咲く蓮の花のような美しい心境。 人生、全くもってそうありたいと思います。 泥にあって美しく咲く蓮。 誰しも泥か蓮かと択一を迫られるなら、蓮を選びたくなるかも知れない。 がしかし、蓮も泥なくては育たない。泥に蓮がなければまたこれもただの泥。 ここで大事なのは、「泥にあって染まらずに美しく咲く蓮がある」という事。 ああ、蓮はいい。どろ?触れたくもない、とか、蓮は良くて泥は悪のような、二者択一の物の見方から少し離れて、「そういうもの」として捉えてみる、すると物事の結果のみにとらわれたり、何かの原因と思われるものを単に取り除こうとしたり、という思考からも距離をおき、物事のなりゆきを平静に観る視野の裕さをもって事に臨めるようになるのではないだろうか。 古い知人が、近所の蓮池から蓮を分けてもらった際に、その蓮池の泥も一緒にもらってきたという。やはり、その蓮の咲く池の泥ももらわないと上手く花を咲かせないらしい。 蓮の例えは、仏教でいう縁起の教えになぞらえるなら、物事の道理を見極めるということかも知れない。 蓮は泥沼にあってその泥に染まらずに美しく花を咲かせる。 私などは、泥沼にあってきっちりと泥に染まって毒々しい花を咲かせることだろう。がしかし、その原因や理由、条件などがそれぞれつかめれば、泥沼にあってその泥に染まらぬように美しく咲く花を咲かせることもできるかも知れない。 また、その方法がわかったとして、単に泥沼にあって泥に染まらぬ花を咲かせるだけにとどまらず、そうやって、物事の真相に迫るもののみかたをしていきましょう、というのが仏教でいう、物事を正しく見る、正見(しょうけん)でもあろうかなと思う。 これ以上書くと、博識の方々からご教示をいただいてしまいそうなので、寝言はこの辺にとどめたいと思います。ある一点のみを見てそこにとらわれて喜怒哀楽を骨髄反射に委ねているかのような時間の積み重ねを、そう言ったこともあるなと眺められたら、幾分穏やかなひと時を、泥沼のような状況とおもえる際に清涼感をもって咲く花のような心持ちですごせる日が来るかも、知れない。 すかっとした寝覚めのような、ブッダ、目覚めたる人の説く教えを拠り所として、少しずつでもそうなるように。 いな、どうやら泥にそまる自ら、を自覚しつつ。